容量2GB!アクセス解析&動画ファイルも可能な無料ブログ。アフィリエイト完全対応。
  最新画像一覧   /    おもしろブログが満載! シャッフル ブログ  /     無料登録  

放射能影響について過剰に扇動するのは犯罪である

  1. 2012/01/07(土) 19:53:19|
  2. 低線量被爆の影響|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
最近話題になっているポジティブ心理学の本を読んで、思いがけない記事を拾った。
それによれば、スリーマイル島の原子力事故によるがん発生が、ストレスによるものであるとの事。そういった話を聞いたことはあったが、学術的な研究の裏づけがあるとは驚きだった。(下記に原文を写す)

それが本当なら、「放射能は低線量でも危険だ」と過剰に扇動する学者、ジャーナリスト、その他関係者は、確実に誰かの命を縮めていることになる。彼らの過失が明確になった際には、法的に訴えるべきと考える。

●扇動を明確に意図していないとしても「業務上過失致死(または障害)」に相当
●著書販促や知名度を上げる等の利益を得るためであれば「詐欺」に相当

だれが、いつ、どんな活動をし、どんな利益を得たのかをしっかりと監視し、記録を残す。さらに、それによって我々がこうむった具体的な被害内容(精神的被害を含む)を日時ともに記録しておくことが望ましい。将来、集団訴訟等による被害算定の際の資料になる。

ただでさえ甚大な被害をこうむった我々に、さらなる苦痛を与えた無責任な行為は許しがたい。断固として戦いたいと考えるが、いかがだろうか?
以上



(引用文献)
「幸せをよぶ法則 楽観性のポジティブ心理学」 スーザン・C・セガストローム著、島井哲志監訳、荒井まゆみ訳 星和書店、2008/5発行 P138

(以下引用原文)
例えば、1979年の原子力発電所事故の現場であるスリーマイル島の住民たちを取り上げて見ましょう。この事故によって、ペンシルベニア州のミドルタウンという町への放射性物質の放出が発生しました。この放射線被爆の典型的な量は胸部のレントゲンのものよりも少ないとわかったものの、放射線に関連した危険の不確実性は、基礎中の基礎資源−健康と生命−を脅かし、事故に関連したストレスと不安は事故そのものよりも有害な結果となりました。発電所の最も近くに住んでいて、かつ最大の脅威を認識し、最大の苦悩を経験した人々の間における1982年と1983年の癌の罹患率は20%上昇しました。放射線の被曝は、発電所からどれだけ近くにすんでいたかというよりもむしろどちら側にすんでいたかということにより密接に関係しており、癌の罹患率の上昇の原因とはなっていませんでした。
(以上引用終わり)





セシウム米を食べる実験をやりたい【協力依頼】

  1. 2011/12/18(日) 16:20:11|
  2. 低線量被爆の影響|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:2
今回の福島原発事故で気付かされた重要なことの一つは、「健康でいることは手段であって目的ではない」ということだ。無論、健康でいることは幸せになるためのひとつの要素であることに違いない。でも、それは、健康でいる方が、幸せになるために何事かをやりやすいというだけに過ぎないのだ。

それに、もし健康であることが生きる目的であるならば、長寿世界一の日本は、世界一幸せな国なはずだ。
逆に、生まれながらに障害を持っている人は、それだけでかわいそうな人ということになる。

それは本当か?・・・・・・違うだろう。

私は、体が不自由でも私より幸せに生きている人を何人も知っている。
それに、健康に気を使っているといっている人でも、健康でいるためのそれ相応の努力をしているのか首を傾げたくなることもある。

残念ながら、わが国の人々に、このことが理解できる人はそれほど多くないようだ。だから総じて幸せを感じにくいんだと思う。

そして、そういった人々が、わずかな「低線量被爆による健康被害」を恐れ、知らず知らずにリスクの高い回避行動をとり、結果的に更なる不幸せな人生を送るんだろうと思われる。

そうしたい人はそうすればいい。それは個人の自由だ。だが、問題なのは、そういった考えを自分以外の人々、家族、子供に押し付けようとすることだ。これらは善意のように受け取れるだけに始末が悪い。




過去にも、同じようなナンセンス事例がたくさんあった。そして、本来だったら得られただろう価値を得られず、無駄な時間、無駄なお金を費やしただけになった。

●水銀、鉛、カドミウム→重金属廃絶
●ダイオキシン→塩素類含有製品の忌避
●水道水中の塩素(トリハロメタン)、鉛→水道水忌避
●環境ホルモン→塩ビ類使用の忌避
●狂牛病→牛肉忌避
●エイズ、新型インフルエンザ→感染者差別

上記事例を詳細に検討していくと、我々人類には、ほかの生物よりも優れたリスク対処能力を持つことがわかってくる。人は、だてに生物界の頂点を極めたわけではないと気付くことになる。
我々人類は、ありとあらゆるリスクに対応できるような生物的機能を何百万年もかけて会得してきた。その術は人智を超える。例えば、母乳からダイオキシンなどの有毒物がでてきて問題になることがあるが、それは第一子に母親の毒素を全て吸収させて、第二子以降に健康な子供を生ませようとする機能だとの説がある。
もっと、人の、生物としての機能を信頼したらどうか?と思う。
世にはびこる多くの健康増進法は、残念ながら本来の生物機能を損なう方向にしか向いていない、ことがよくある。結局は何もしないのが最も良いなんてことも珍しくない。まあ、我々が数世紀の間に蓄積した大脳の知恵というのは、人類が生物として培ってきた身体能力智に比べたら、遥かに幼稚ということだろう。我々がやって効果のあるのは、身体機能をちゃんと理解して補佐できる分野ぐらいと知るべきだ。




今回の低線量被爆で注意すべきポイントは、人体のどこかに蓄積される核種がどの程度あるのか、ということだった。
例えばストロンチウムは骨に、ルテニウム等は肝臓に蓄積されると、それらが同じ箇所を局所的に何度もアタックして、遺伝子や生体機能(例えば肝機能、造血機能)を破壊する可能性がある。
しかし、今回福島から出た放射性物質は(ヨウ素を除けば)人体の特定の部位への蓄積性が非常に低いものがほとんどである。蓄積性が無ければ、人体中、あるいは人体外の低いレベルの放射能は、「放射線から生成された活性酸素が、無差別に生体にアタックしている」程度といえる。一般生活で大量に発生する活性酸素に耐性を持つ我々人類にとって、それほど不都合が生じるとは考えにくい。

だから私は、今回の事故に伴って発生した低線量被爆は、現在生きている我々(子供も含めて)には、拍子抜けするほど影響がないだろうと考えている。




だが、残念なことに、こういったことをいくら主張しても(叫んでも)、何の肩書きもない私の言うことには誰も耳を貸さない。たとえじわじわと知れ渡ったとしても、社会に認められるのは何十年も後になる。

それでは何の役にも立たない。・・・どうしたものか。

と、ふと思いついた。そうだ、実験をすればよい。
セシウムが含まれた食品を食べ続けて、全く影響のないことを示せばよいのだ。

そこで相談だが、だれか実験に協力してもらえないだろうか。

●準備してもらいたいのは、500ベクレル/kg前後に調整した白米、または玄米。もちろん購入費用は出す。その他、セシウム含有の果物があっても面白い。
●やっていただきたいのは、定期的な尿検査(排出セシウム量検査含む)、健康検査。
●私としては、結果さえ教えていただければ、実験報酬等は一切不要。万一、病気になっても、治療費等は一切要求しない。

500ベクレル/kgだったら、人道的に全く問題ないはず。もし、医療関係者、あるいは研究生がこのブログをみていたら、検討してもらえないだろうか?

やってもよさそうだと思われたら、是非連絡をいただきたい。
また、同じことを考えている人もいくらかいると思う。そういった方も連絡をいただきたい。(書き込みをしても一般に公開しないように設定してあります)

今のような「あほな」状態から脱出できるのであれば、喜んで人体実験に協力したいと思う。是非ご検討いただきたい。

以上

[ セシウム米を食べる実験をやりたい【協力依頼】 ] の続きを読む

セントジョーンズワートを活用したADD特性の改善について

  1. 2011/11/21(月) 22:31:47|
  2. ADD特性調査|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
【要約】
セントジョーンズワートを服用することで、ADD(AD/HD)の悪い特性(初期学習能力が低い)を克服できる一方で、ADDのよい特性(ひらめき等)を抑制する可能性がある。セントジョーンズワートの服用/非服用をコントロールすることで、効果的に学習を進められる可能性がある。

【検討を行った背景】
私が自らを「大人のADD(注意欠陥症候群;AD/HDと同義)」かもしれないと疑ったときに、それを確かめるためにセントジョーンズワート服用を思い立った。
「『わかっているのにできない』脳」(エイメン著)によれば、ADDは5つのタイプに分かれる。同書によると、私は5つのタイプの中でTYPE2に該当する可能性が高い。TYPE2の諸症状を緩和する効果があるサプリメントとして、セントジョーンズワートがあり、医者が処方する薬(SSRI系)と同等の薬効があるとしている。
薬効があるならADDだと判断できるし、なければADDではないと判断できる。そして、仮にADDであったとすれば、その諸症状をコントロールするための知見も得られる可能性がある。

【実験】
セントジョーンズワート服用量は、一日当たり900mg。服用に伴う軽い副作用を和らげるためのL-チロシンを1000mg併用服用する(いずれも前記エイメン著作記載通り)。
調査期間は2009/2/19〜2010/11/9。一定周期で、非服用(最初)→服用(2番目)→…→非服用(13番目)を繰り返す。それぞれの期間を順にT1〜T13と名付ける。尚、
●T1は2009/2/19以降、10日間。T2〜T5はほぼ一カ月間、T6〜T13はほぼ二カ月間行った。
●セントジョーンズワートは3社から購入した。T2は、Nature's Plus製、T4は、DHC製、T6以降はピューリタンズプライドを利用した。それぞれの間に違いは無いものとして、以下の考察を進める。

ADDの特性を計量する為に、パソコンの囲碁ゲームを利用する。一日毎にパソコン相手に数局戦い、得点の平均をその日のADDの特性を現す値とする。尚、
●囲碁ゲームソフトは「お父さんのための囲碁2」を利用した。
●パソコンとの対戦レベルは3段階あるが、中間の2レベルを選択。黒番:コンピュータ(置き石:3)、白石:人間に設定。更に、T6途中から、高レベル3、黒番:人間(置き石:2)、白番:コンピュータに設定したゲームを並行実施した。今後、特に断らない限り前者に関して検討を進める。後者は再現性を確認するためのみに用いた。区別が必要な場合は、前者を「中レベル」、後者を「高レベル」と称する。
●得点は、地の広さの差とし、私が勝った場合はプラスで、負けた場合はマイナスで表す。

実際に取り組んでみて、いくつかの点で、囲碁ゲームはADD的な特性を計測するのに適切だと思われた。
●たった一目の不注意が、相手に大きな地を作らせる結果を生む。ADDの重要な特性のひとつである「不注意」の度合いを増幅して計量できることを意味する。
●ゲームは結果が如実に表れるため、「頭に血がのぼる」程、熱中できる。前述エイメンによれば、熱中している際にADDの特徴が強く現れることがある(前頭葉の不活発化による)。
●取り組み意欲が強いことが災い(?)し、次の手を打つまでの思考時間が極端に短かった。何度か意識してみたが、その傾向は改まらなかった。結果として、深く思索する能力よりも、反射神経的な能力が結果に強く反映されることになる。
●特定の空間パターンを認識する能力が反映される。
●相手(コンピュータ)の弱点を発見する等の学習効果も反映される(何度、弱点をついてもコンピュータは学習しないため、弱点を見つけるほど結果として私の得点は増え続けることになる。しかし、そんなことをいくらやっても囲碁を打つ能力そのものは、はさほど向上しないことも分かった;残念!)。
●結果が悪い時には何度やっても結果が悪く、逆に勝つときには何度も簡単に勝てた。しかし、取り組み前にどのような結果になるのかはほとんど当たらず、自分が調子がよいのか悪いのかに関する自覚が無いことが分かった。つまり、自覚が無いほどのわずかな差も結果に現れると言える。

【結果と考察1】
今回から数回にわたって、実験を行った結果と考察を記載する。まず、今回は得点の経時変化について述べる。

Fig.A1に、636日間(T1〜T13の全ての期間)の、囲碁ゲームの得点の推移を示す。


Fig.A1 636日間の囲碁ゲームの得点の推移



横軸に測定日、縦軸に日単位の得点平均を示す。尚、横軸の数字は、T1〜T13の期間を意味し、それぞれの期間の切替位置に縦線を挿入した。
得点の日ごとのばらつきは非常に大きいが、5次近似曲線(赤線)をフィッティングさせると、右肩上がりに増加する傾向が見て取れる。但し、その傾きは一様でなく、
●T1〜T4の期間は急速に伸びるが、
●徐々に鈍化してT7近傍で高原状態になる。
●T9〜T11に再び上昇し始め、
●T12以降に再び伸びが鈍化し、第二の高原状態に達する。

T1〜T13のそれぞれの期間毎に直線をフィッティングさせた結果をFig.A2の赤線で示す。


Fig.A2 636日間の囲碁ゲームの得点の推移
(T1〜T13のそれぞれの期間毎に直線をフィッティング)



ここから読みとれることは、
●セントジョーンズワートを服用したT2、T4は著しく成績が向上するのに対して、服用していないT3、T5はむしろ成績が悪くなる傾向がみられた。
●服用期間のT2、T4、T6、T8の赤線は、T3、T5、T7を取り除いてつなぎ合わせると、まるで一つのグラフのように接続しているように見える。
●非服用期間のT7、T9、T11、T13の赤線は、T8、T10、T12を取り除いてつなぎ合わせると、まるで一つのグラフのように接続しているように見える。

そこで、Fig.A1の服用期間(Tナンバーが偶数)と非服用期間(Tナンバーが奇数)のグラフを別々に切り離して、T2、T4、・・・T12をつなぎ直したグラフと、T1、T3、・・・T13をつなぎ合わせたグラフを作成した。それぞれFig.A3、A4とし、それぞれのプロットに対する5次近似曲線を黒線で示す。


Fig.A3 セントジョーンズワート服用時の囲碁ゲームの得点の推移
(黒線は5次近似曲線;赤線はFig.A5の赤線と同じ)



Fig.A4 セントジョーンズワート非服用時の囲碁ゲームの得点の推移(黒線は5次近似曲線;赤線はFig.A5の赤線と同じ)



Fig.A5 Fig.A3とFig.A4をオーバーラップさせた結果



尚、Fig.A3とA4を単純に重ね合わせたものをFig.A5に示すが、そこから得られた5次近似曲線(赤曲線)をFig.A2、A3にそれぞれオーバラップさせた。すると、
●Fig.A3、A4のT1〜T7及びT12〜T13の黒と赤の近似曲線はほぼ一致する。
●一方で、T8〜T11の領域だけが黒と赤の近似曲線が一致しない。
これは何を意味しているのか。

少なくとも言えるのは、
●T1〜T6の期間(210日間)は、セントジョーンズワートの服用した方が得点が高く、
●T3、T5の非服用期間は、T2、T4に引きずられるようにして得点が上昇した。
●T7〜T11の期間(303日間)は、セントジョーンズワートを服用していない期間に一貫して成績が伸びる一方で、服用している期間は成績の伸びが鈍化した。(T10、T12の成績向上は、T9、T11の影響であるかのように見える)
●T12〜T13の期間(123日間)は、服用・非服用にかかわらず点数が伸びなくなった。

また仮説だが、
●T3、T5の非服用期間は、T2、T4期間のようなセントジョーンズワートが作用した高い学習能力は使えないものの、T2、T4期間に獲得した得点獲得能力は利用できている。
●逆に、T10、T12の服用期間は、T9、T11期間のようなADDの特性(ひらめき?)を活用した高い学習能力は使えないものの、T9、T11期間に獲得した得点獲得能力は利用できている。
●セントジョーンズワートの服用期間と非服用期間は、全く異なった学習能力を反映している可能性がある(例えば服用時には左脳、非服用時には右脳といった、全く異なった脳部位による学習を見ている可能性がある)。
●最近になるまで「ADDは子供に特有な現象であって、大人になると自然とADDが解消される」とされていた。これは、「初期学習成績の低い期間」とそれに引き続く「気づきを得て順調に成績が伸びている期間」とのギャップを誤解した可能性がある。

これらの結果は、下記のようなADDの定性的な特性をよく反映しているように思われる。
●何かを習得しようとすると、最初は単純なミス等もあって、なかなか成果が感じられない。しかし、めげずに努力し続けると、当初思ったより良い成績をとれるようになる。
●新しいことを始めると、当初は記憶することや単純な技術の習得に時間がかかるが、一定レベルを超えると、ハッとされられるような気付きが出始める。

尚、T6〜T13に行った「高レベル」ゲームにおいても同様の傾向が得られた。上記結果の再現性が得られたものと判断する。


Fig.A6 「高レベル」ゲームの得点の推移



Fig.A7 「高レベル」ゲームの得点の推移
(T6〜T13のそれぞれの期間毎に直線をフィッティング)



Fig.A8 セントジョーンズワート服用時の「高レベル」囲碁ゲームの得点の推移
(黒線は5次近似曲線;赤線はFig.A10の赤線と同じ)



Fig.A9 セントジョーンズワート非服用時の「高レベル」囲碁ゲームの得点の推移
(黒線は5次近似曲線;赤線はFig.A10の赤線と同じ)



Fig.A10 Fig.A8とFig.A9をオーバーラップさせた結果



Fig.A6に、T6〜T13の日単位の勝玉数をプロットした結果を示す。縦軸に得点、横軸に日数を示す。Fig.A7の服用期間(Tナンバーが偶数)と非服用期間(Tナンバーが奇数)のグラフを別々に切り離して、T6、T8、・・・T12をつなぎ直したグラフ、及びT7、T9、・・・T13をつなぎ合わせたグラフをそれぞれFig.A8、A9とし、それぞれのプロットに対する5次近似曲線を黒線で示す。Fig.A8とA9を単純に重ね合わせたものをFig.A10に示すが、そこから得られた5次近似曲線(赤線)をFig.A7、A8にそれぞれオーバラップさせた。その結果、
●T6〜T9の期間(214日間)は、セントジョーンズワートの服用した方が成績が若干良かった。
●T10〜T13の期間(246日間)は、セントジョーンズワートを服用していない期間に一貫して成績が伸びる一方で、服用している期間は成績の伸びが鈍化する傾向がある。

【まとめ1】
以上の検討から、いくつかの重要な知見が導ける。
●セントジョーンズワードを服用することで、ADDの悪い特性(初期学習能力が低い)を克服できる一方で、ADDのよい特性(ひらめき等)を抑制する可能性がある。
●セントジョーンズワートの服用/非服用を適当な時期、あるいは学習内容に応じてスイッチすることで、効果的に学習を進められる可能性がある。例1:何らかの学習を新規にスタートさせる際にはセントジョーンズワートを服用し、応用が要求される段階になったら服用をやめる。例2:適当な周期で服用/非服用を切り替えて強制的に異なった学習形態を作り出すことで、それらの相乗効果を引き出す。

尚、当初の目的であった、セントジョーンズワートの効果の有無によるADD診断に関しても目的を達した。すなわち、本人に自覚は無いものの、少なくともADD的な特性を持っている(要するにBEE)、ということになる。
次回は、もう少し数学的な処理を行った結果について述べる。

今回の低線量被爆の騒ぎから学んだこと(メモ)

  1. 2011/11/14(月) 01:04:30|
  2. 低線量被爆の影響|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
●論理的な思考を放棄し、自分の考えに近い意見を持って自分の生き方を決めようとする人がいかに多いかということを知る。彼女ら(彼ら)が論理的に判断する唯一の事柄は、その人が解説する内容ではなく、その人が信用できるか否かの一点。信用できないと判断すれば、その人の主張を聞こうともしない。驚いたことに、信用できない人の言うことは、全て間違っていると思い込んでいる人すらいる。

彼女らは、通常、肩書や権威に従うが、今回は、政府、官界、学界、マスコミ、大企業などの大所が信用できなくなったために、本来なら歯牙にもかけないような名も知らぬ有識者(と主張する人)に引っかかっている。

●(日本的に)優れていると判断される人(=知識が多い人)ですら、上記パターンに陥っている人が結構いることに驚いた。様々な学者が異なった意見を表明しているのだから、正しい知識を取り入れるがよいことだと思って生きてきた人は、今回のような状況では対処できないということだろう。

●不安を感じる人が、ネットを使って不安に共感を示す有識者を選び出し、その有識者の学識を持ってさらに不安に陥るという悪循環が発生している。リアルな社会からは理解できないほど不安が蓄積し、そのために身の回りの人から孤立し、結果として更にネットに依存するとの悪循環も発生しているようだ。「ネットは不安の増幅回路として機能する」ことを知っておく必要がある。

●肩書きが立派な学者の中で、売名行為を平然と行う人が少なからずいるということも驚きであった。放射能の影響が実際に判明するには、この先何年も、場合によっては何十年もかかる。「放射能は怖いと扇動した」ことがばれる心配は、少なくとも当面ない。ばれる前に、煽るだけあおり、知名度を上げ、本を売り、講演会を開く。会社の出世コースを歩む人で、同じような行為をする人をたまに見かけるが、学者が同じことをするとは思っても見なかった。学者の業績は何十年、場合によっては何百年と残るのだ。売名行為によって一時的に評価を得たことが、自分の業績に確実な汚点として残ることに無頓着ということか。

●従来から、「ゼロリスク思考」=「確率的にものを捉えることができないこと」がどこから来ているのかをずっと考えてきた。今回の騒ぎから、それが「ものを考えない思考形態」←「記憶中心の学習形態」に由来するのではないかとのおぼろげながらの輪郭を得ることができた。これらについては引き続き見当を加える必要があるが、少なくとも明治初期においても、同様な傾向はあったようだ。ことによると徳川政権による各種洗脳の結果かもしれない。だれか、それらしいことを言っている人がいるんじゃないだろうか?

●チェルノブイリにおける健康被害は、「放射能に侵されながら生きていかなければならない」との心労が影響した可能性が指摘されている。今回の日本の放射能事故に関しては、その危険性はあまり意識されていない。しかし、おそらく放射能による被害よりもその影響の方がはるかに大きいと思われる。「チェルノブイリに学べ」というのであれば、その点をもよくよく学んでほしいと願っている。

●津波を想定していない、全電源が長時間落ちることを想定できない、浸水するような位置に発電機をおく、電源車が接続できない、重要な所に電気がないと使えない電磁弁を使っている、原子炉内部の様子が遠隔モニタリングできない、せっかく作った開発ロボットをお釈迦にする、使用済み燃料を頭に抱えている、そのことを原子炉の専門家が知らない、等々、全くお粗末な現状を知るにつけ、我々には、原発のような複雑なものをマネージメントできるだけの能力がないということが良くわかる。今回の事故は起こるべくしておきたのである。
もしかすると、フランス人にはマネジメント能力があるのかもしれない。だったら、全てのマネージメントをフランスに任せてしまうのも手かもしれない。
そうしないのであれば、我々日本人は原発を放棄する以外にない。残念ながら、能力がないということはそういうことである。

(総合的なマネジメント能力を欠くために優れた技術開発力が生かせない。成熟した社会が続く限り、それは致命的欠点となろう)

●政治家の右往左往振りにもあきれ果てた。こういった緊急時に、政治家の能力がはっきりと現れるものだ。しかし、無論、政治家に全て責任があるわけではない。むしろ、彼らを選んだ我々の側に責任がある。我々日本人には、現在の大きさの日本をマネージメントするだけの能力がないといわざるを得ない。
リーダーシップが発揮できないのは、今に始まったことではない。もちろん、一億人もいるのだから、リーダーの素質がある人間は、おそらくたくさんいる。だが、我々に、彼らを見つけ出し、育て、そして任せる能力がないのだ。
日本を立ち行かせるには、アメリカから元大統領をスカウトしてきて日本の首長に据えて大改革するか、あるいは日本を分割統治する以外に手立てがないように思える。「道州制」がだめなら「廃県置藩」にするか?能力が無いなら無いなりに、手を打たねばなるまい。

言葉によらない発想がもたらすもの

  1. 2011/10/10(月) 22:37:55|
  2. BEEな難点|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
「人みな骨になるならば 虚無から始める人生論」(頼藤 和寛/著時事通信社)を読んだ。全般的には興味深く読ませていただいたが、その中で、はっとされられる一文があった。
「少なくとも、人間がまず思考して、しかるのちにそれを言語によって表現したり、自ら納得したりするのではないことは確かである。」(第一部 第二章 思い込みの由来 言語の限界)と言う部分を読んで、「やっぱり、そうなんだ。(BEEではない)普通の人は、まず最初に言葉で物を考えるから、私と理解しあえない(ことがある)んだ!」と合点したのだ。




私は、必ずしも言語によって思考しない。自分でもどうやっているかは良く分からないのだが、なにか「感」がして、そして「行動」して、そして「ひらめく」のである。そして、ひらめいた後に、それが本当によいことなのかどうかを言語や思考実験によって検証し、場合によってはシミュレーションや各種実験を使い、そして納得するのだ。ひらめきから直接行動に移す場合もあり、その場合は言語化され無いことすらある。

無論、ひらめく内容は、すごいことだけではなく、どうでもよいような日常茶飯事にまで至る。
人生とは、自分のひらめきが正しいかどうかを確かめるためにあるのではない
か、と感じたことすらあった。

これだけ言うと、「それのどこが困ったことなのさ」と言われるかもしれないが、実は、ひらめき以外の各種能力が育っていないことが様々な問題を引き起こすのだ。



●落ち着いて考えれば分かりそうなことを、ひらめきで代替させようとするものだから、当然、「抜け」が発生する。単純なミスを連発する。

●ひらめきは必ずしも論理的でなく、そのために無駄なことをやったり、時間がかかったりする。小学校の時、単純な計算を、まず最初に直感で答えを出し、次にそれを検証し、最後にもう一度検算する、といったことをしていたため、非常に計算が遅かったのを覚えている。

●上記のような多くの不都合を防ごうと、頭をフル回転させるために、疲れやすく、そして比較的短期間で飽きてしまう。

●連続したひらめきのまま行動すると、どんどんわき道にそれてしまう。そして恐らく言語化していないためだと思われるが、最初に何をやっていたのかが分からなくなる。

●分からなくならないように逐次記録を始めると、その量が膨大になって大抵呆れられる。まとめるのも大変になる。

●また、ひらめきを逐次口に出すと、「A」と言った直後に、「いやBかもしれない」、「Cの可能性もある」、と不統一見解を並べることになり、オフィシャルな場面では結構嫌がられる。またTPOをわきまえない発言(つまり失言)になってしまうこともある。そして、少なくともリーダとしての素質は無いと烙印を押される。

●ひらめきは、場合によっては自分にすらよく理解されていない。無理に急いで言語化すると、曖昧な表現となる。一方、しゃべることでだんだんと理解が深まるが、論旨がどんどん変わると言われることがある。

●人の話を聞いている最中に何かをひらめき、それに意図を取られる。一回話を聞いただけでは理解できないことが多々あり、聞き間違えも多い。



最終的に問題行動になるのは、コミュニケーションのテクニックが未熟であるためとも考えられる。

会議で私がしゃべったことに対して反応が無かったにもかかわらず、全く同じ(と思われる)ことを隣の人がしゃべると皆が理解するということがしばしばある。(何でだよ!とその度に憤慨する)

思いつきだから当たり前だが、「脈絡が無い」ことでその場の雰囲気を壊すこともしばしばだ。

いやな思いをして、理解されないぐらいならしゃべらない方が良かったといつも思う。



しかし、それらの認識は、大局的には違うということだ。ただ単に、「言葉を基にして、論理的、一次元的に発想する人」と「ひらめきを基にしたホログラフィックな世界に生きる人」とは、そりが合わないというだけのことなんだな。きっと。

BEEではない人々が主流を占める今の社会において、BEEな人が理解されないことは多い。でも、全く理解されていないわけではないし、完全に理解されることが必ずしもよいともいえない。(先に紹介した本の作者である)頼藤氏に言わせれば、「一生懸命生きて、そして成し遂げたことがある。それで十分」ということなのかもしれない。

他人にこびずに、自分の生き方をしていこう。
今までも、結局はそうしてきた。
どこまでできるかわからないが、たとえ死すとも、その道を究める方向に倒れるように生きていこうと思う。

DTIブログって?

次のページ